【第18回】地域の共有資産として“緑”を位置づける ~緑豊かな街をめざした緑のマップづくり(いたばしエコ活動推進協議会『緑のマップ・プロジェクト』)

2012.09.14

「高島平を中心とする低地は、標高3~5mくらいですかね、荒川の氾濫原ですよ。かつて、江戸時代には幕府の直轄地として鷹狩りが盛んだった。明治になって払い下げられて、田んぼになった。そういう土地です」
 説明してくれたのは、『緑のマップ・プロジェクト』発起人の村上和生さん。板橋区に移り住んで、34年になるという。

板橋区内の134町丁。緑色に塗りつぶされた区域がすでに踏査済みのところ。白と黄色の色分けは、崖線を境に台地(黄)と低地(白)を区分けしている。

「今は割と工場の多いところで、比較的緑の少ない地域。区内に残っている田んぼは、今や区立水車公園というところに小さな田んぼが1カ所だけです。農地としての田んぼは今はもうありません」──と、言葉を引き継ぐのは、同じくメンバーの小林良邦さん。小林さんも、板橋に住んで40年ほど。ただし、仕事勤めの間、家には寝に帰るだけだったという。
 もう一人の鈴木和貴さんは、まだ現役で仕事をしている。85年に板橋区に越してきてから、もうすぐ30年になる。ただ、地域を明確に意識するようになったのは、緑のマップ・プロジェクトなどで歩くようになってからだったと回想する。
 「崖線を登った武蔵野台地の上も、よく見るとわずかな地形の起伏があるんですが、その起伏の理由は街の歴史に刻まれています。つまり、今はなくなった川の痕跡などが、緑を追いかけていくことで浮き上がります」

 お三方とも、板橋区の津々浦々を歩いて、地域に残された緑地を巡りながら『緑のマップ』と呼ぶ手づくり地図を描いている、『緑のマップ・プロジェクト』の面々だ。毎月第一土曜日の午前中を定例活動日に、134に分かれる同区の町丁を1箇所ずつ歩いてまわっているという。

話を伺った、いたばしエコ活動推進協議会「緑のマップ・プロジェクト」の
(左から)小林良邦さん、鈴木和貴さん、村上和生さん

 そもそものきっかけは、2006年から4年間にわたって実施した、『特定樹林地の自主調査』に遡る。樹林地に関する区の公表資料をもとに、現地を歩いてその現況を一つひとつ確認し、「消失」「残存」「減少」など区分で変化状況を整理したものだ。
 「区では、1980年代以降、いろんなレベルで緑地の実態調査をしてきているのですが、調査当時から開発も進んで、緑がどんどんなくなってしまっていた。これはきっちり調べておかないとだめだなと思って、調べ始めたんですよ」

緑のマップの作成事例(2例)。白地図にコース等を書き込み、写真と解説を張り込んで作成。人によってまとめ方は異なる。
緑のマップ作成当日の様子。左と中央は大門(2012年5月)、右は稲荷台(2012年9月)

 区が公表している調査資料では、区内の300㎡(100坪)以上の一まとまりの緑地を『特定樹林地』として定義している。1987年の調査資料では、独立林を中心に区内66カ所が選定され、これらはその後も継続的に刊行されている調査資料でも面積推移などが追跡調査され、経年変化を追うことができた。当初の調査では、これら66カ所の残存地を中心に実際に現地を踏査して、自主レポートにまとめた。
 ところが、レポートをまとめた直後の2007年に、湧水などの水系を中心とした『板橋区自然環境実態調査(水系調査)』が発行された。ここには、水源涵養や気候緩和などに関連する106カ所の樹林地についての調査報告を収録していた。66カ所の特定樹林地以外にも区の資料の中にさらに多くの“樹林地”があることを知り、既存資料の洗い直しと、それらをもとにした現地再調査を実施し、『自主調査レポート②』としてまとめたのが2010年3月だった。
 調査方法は、区の資料からの一覧リストと住宅地図の樹林記号やGoogleの航空写真を参考にした地図を準備して、現地を歩いて目視で「300㎡以上で10mの高木を含む緑地」を樹林地として記録した。
 「区の資料では、個人情報の関係もあって、必ずしも特定した形では出ていないんですね。ある程度住所を辿って、ここだろうというのを一つ一つ潰していくという地道な作業でした」
 この自主調査グループは、レポートの発行と区への提出を区切りに、役割を果たし終えたとして解散したという。

『板橋区の樹林地──区の資料と自主調査レポート②』
(2010年3月発行)より抜粋。色別に塗り分けられている欄が、樹林地の変化状況を表す(赤が「消失」、黄色は「減少」、緑は「残存」など)。写真は、現地を踏査して確認した調査当時の現況。

自主調査グループは解散したが、このときの現地調査の経験は大きかった。
 当時の調査に参加した鈴木さんは、そのときの実感についてこう話す。
 「街にはいろいろな緑がありますよね。生垣、庭木、屋敷林、樹林、農地などもあります。いろんなスタイルの緑があるのですが、民有地では多くの場合、個人の意志と努力があって守り育まれてきているということを強く感じました。“緑豊かな街”という理想は以前から持っていましたが、それは理念だけでは実現しません。現実に費用や手間をかけて支えてくれている人たちの存在があってこそ成り立っているということと、その大切さに改めて気付かされたのが、この自主調査でした」

緑のマップ・プロジェクトでは、前述の通り、毎回、町丁を基本単位にして歩いている。これは、日常の生活感をベースにするためだ。縮尺3,000分の1の白地図を用意して書き込んでいるが、この縮尺だとだいたいA4サイズに収まるという。昔の写真や古地図など、互いに調べた資料を持ち寄って、共有した情報から得られる発見もある。
 2012年9月1日(土)の活動は、稲荷台での緑のマップづくりだった。都営地下鉄の板橋本町駅から中用水跡を辿って稲荷台に入る。会員の一人が1958年撮影の古い写真を持参。当時、中用水の谷をまたいで橋が架かっている写真だ。同じ地点の現況は、旧用水が埋め立てられた住宅地となっていて、当時の面影はまるでない。

1958年当時の中用水
現在の同地点の現況

これまでの活動でまわってきたのは、高々20数カ所に過ぎない。区内の全134町丁をまわりきるには、月1回の活動ペースではまだまだ10年近くかかる計算だ。ただ、そうして歩いていると、常に新たな発見があって飽きることがないという。住宅街や工場地帯、古くから商業地区として栄えていたところなど、いろいろなまちの顔が見えてくる。
 「この間もね、板橋一丁目というところを歩いていたんですが、江戸時代から残っていた千川上水の跡を見つけましてね。マンホールの蓋に千川上水の文字がデザインされていたのです。みんな大興奮、緑のマップどころじゃなくなって、近世~近代の歴史散策になっちゃって…。そんな回もありました」
 同地域は、中山道を稜線として、南と北にある川に向けてそれぞれなだらかに傾斜する地形になっている。千川上水はその稜線上にあったわけだ。古くから商業地帯として開発が進められてきたことが伺えたという。

 先に紹介した、特定樹林地の自主調査の結果と照らし合わせながら歩いていくと、特にここ2~30年で、板橋区がいかに大きな変貌を遂げたかが見えてくるという。

実施回ごとに整理してファイリングしてある「緑のマップ」
マンホールの蓋のデザインに見つけた、
千川上水の痕跡

 現在は、自主調査や基本計画策定のプロジェクトに参加した人たちが参加するメンバーが主体で各地を歩き、緑のマップづくりの経験と知見を貯めていっているといえる。将来的には、こうしてストックした各地の緑のマップをデータバンクとして活用できるように提供したいという。同時に、メンバー中心に歩いている緑のマップづくりを体系化していきながら、町会や学校など地域のコミュニティと連携しながら実施していくことも意識している。それこそが本来の趣旨である地域の人たちが地域の緑に対する価値観を共有化していくことにつながるからだ。
 さらに、子どもたちの環境学習としての展開や、地域の歴史・文化を踏まえたグリーンツーリズムの開催なども見据えている。そのためのプログラム化も着手し始めた。
 2012年2月には、いたばしエコ活動推進協議会の前身に当たる板橋環境会議の予算をもらってパンフレットも作った。
 緑のマップ・プロジェクトは、まだはじまりの途についたばかりだ。

パンフレット『緑のマップを創ってみよう』(2012年2月作成)

注釈

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