トップページ > エコアカデミー一覧 > 第24回 世界最大都市江戸 誕生! ―エコで清潔な大都市江戸はどのように造られたか―
2013.08.08
大久保 智弘(おおくぼ ともひろ)
1947年長野県生まれ。立教大学卒業後、都立高校で教鞭をとる。「水の砦――福島正則最後の闘い」で、第5回時代小説大賞を受賞し文壇デビューを果たす。波乱に富んだ物語構成、鮮烈な登場人物の造形等で多くの読者を魅了する。「江戸群炎記」「木霊風説」「仮面疾風」「御庭番宰領シリーズ」など時代小説のほか、「勇者は懼れず」「兵は詭道なり」などの中国小説も手がけている。
都市の造成には、インフラ整備が大事です。今日であれば、交通手段や環境の整備がまず頭に浮かびますが、衛生的な水の確保が何よりも肝要でしょう。それは、古くから変わっていません。新たな都市の建設には、まず水利が考慮されました。江戸時代、世界最大の都市だったとされる江戸は、衛生的な水の確保において、世界最先端にありました。世界歴史遺産でも、スペイン・セゴビア旧市街の水道橋などが登録されています。しかし、江戸の水道を世界遺産に登録しようとの話はあまり聞きません。本当に世界最先端だったのでしょうか。
江戸の上水(東京都水道歴史館)
神田上水石碑(東京都水道歴史館)
大都市の弱点は飲料水の確保です。堀を掘ってその土で湿地を埋めて造成した江戸の下町は、水質が悪く飲料水に窮しました。家康は関東打ち入りに先立って、大久保藤五郎忠行に用水についての意見を述べさせました。忠行は多摩川の水を小石川筋より引くべきである、とその理由を逐一述べたので、その見識に感服した家康は、忠行の名を主水(もんと)と改めさせたといいます。主水の構想が実行に移され玉川上水が開削されるのは、三代将軍家光のころまで待たなければなりません。大久保主水はとりあえず、神田明神山岸の湧水(御茶ノ水)を北東の町へ流し、山王山下の流れ(赤坂溜池)を西南の町に流して水道を敷設しました。これが神田上水と玉川上水の前身です。
江戸市街が繁華になるにつれて、神田上水には井の頭池から水を引き、玉川上水には羽村から多摩川の水が導かれました。江戸にはその他に青山上水、三田上水、亀有上水(本所上水)、千川上水があり、併せて六上水が引かれました。神田上水は江戸水道の中で最も早く、江戸城に入る上水の他に、京橋川を境にしてその北側にある町に給水されました。南神田、日本橋、銀座、尾張町などの下町には、巨大な木樋を流れる神田上水が行き渡っていたわけです。江戸っ子が「神田の生まれよ」と啖呵を切るのは、神田上水で産湯をつかったことを誇るのであり、それが当時の文化生活の証しでした。
次いで開かれた玉川上水は、江戸城内、京橋川の南、江戸城西部の町々や、武家屋敷、寺社など、水量が多いだけに給水領域も広大でした。この両水道は二百年にわたって江戸市民の渇きを潤し続けたばかりでなく、明治時代になってからも東京都民の飲料水として利用されました。そのために多摩川下流域では水量が衰えて干潟ができ、漁船の運行にも事欠くばかりか、水田への給水ができず、耕作地の減少に悩まされるほどであったといいます。
長屋の上水井戸端(東京都水道歴史館)
大都会の悩みは下水の処理でしょう。江戸は水の町だから、生活用水は地に染み込むか掘割に流されました。問題は糞尿の処理です。人口100万という大都市になった江戸で、100万人から排泄される糞尿の量は半端ではありません。しかし江戸が新設の都会であること、水の都であることが幸いしました。
江戸は関東で唯一の大都会であって、田園の中に孤立しています。それよりも内に農村を包括している都会でした、と言った方が正しいかもしれません。人口の急増は食糧確保を促進させ、近郊の農家では、狭い耕地からより効率的な収穫を得ることが期待されました。最も収穫のあがる肥料は人糞でした。都会は糞尿に満ちています。近郊の農家は競って人糞を求めました。落語の熊さんや八つぁんが店賃も払わずにのうのうとしていられたのは、毎日排泄する糞尿が、大家さんの収入源になっていたからです。さいわいに江戸は四通八達した運河の町でした。江戸で生産された大量の糞尿は、汚穢屋(おわいや)によって買い取られ、汚穢舟に積まれて近郊の農村まで運ばれました。そこで栄養たっぷりに育てられた野菜は、逆コースをたどって川舟に乗せられ、江戸の青果市場をにぎわしました。大都会には珍しく、江戸では新鮮な野菜を食べることができたのです。
同時代の世界的大都市、パリやロンドンと比較すればどうでしょうか。少し時代は下りますが、作家メルシェは1780年に刊行された『タブロー・ド・パリ』の中で書いています。『街路は狭いばかりか曲がりくねり、高い建物が邪魔になって風通しが悪い。都心の屠場、墓地、汚泥や糞尿に汚れた街路、構造の悪い糞尿溜めは空気を腐らせる』。モンテーニュの時代(1588)パリは人口40万に達していたが、悩みの種は糞尿処理でした。パリ市民は平安時代の貴族のようにオマルを愛用しましたが、排泄物を共同糞尿溜めに捨てにゆくことをめんどうがり、日没になるのを待って「ギャルデ・ロー」(お水に注意)と叫んで、オマルの糞尿を窓から街路に投げ捨てました。パリは古くからヨーロッパのどの町より石像建築が多くありました。パリの地下から豊富な石材が掘り出されたからです。セーヌ右岸のモンマルトル、ベルヴィは漆喰、セーヌ左岸は石灰石の宝庫でした。採石された後のパリの地下には、迷路のような空洞が残されました。後の調査では空洞回廊の総延長は300キロメートル、パリの市域面積の12分の1にあたるといいます。これでは飲料水に苦労しないはずはありません。井戸を掘っても地下水脈にいきあたるところはあまりありませんでした。水売りはパリ名物と言われましたが、あまり自慢できるものではありません。「パリに水を」の掛け声には深刻なものがありました。1811年、ナポレオンは総延長1003キロメートルに及ぶウルク運河を完成させました。しかしナポレオンの没落とともに、ウルク運河はたちまちセーヌ川並に汚染されてしまいました。パリ市民の飲料水として、アーヴル水道が完成したのは1893年のことです。
ロンドンでも1603年には飲料水不足が深刻になりました。当時の人口は18万とも30万とも言われますが、泉水や地下水の利用は限界に達していました。1582年にはロンドンブリッジの橋脚のあいだに水車を取り付け、テームズ川の水を汲み上げて水道としましたが、汚染が進んでいたテームズ川の水が、そのまま飲料水になるわけはありません。ロンドンの北方30キロあまりの高地ハートフォドシャーに泉水がありましたが、それはリー川に流入してロンドン東方でテームズ川に合流していました。そこから上水を引くニューリバー計画が立てられましたが、エリザベス女王はまもなく死去、計画はジェームズ一世に引き継がれました。1609年、ハートフォードシャー側から着工されましたが予想以上の難工事で、開通したのは1628年のことでした。ニューリバーの総延長は60キロ。同じころ開削された玉川上水の総延長は43キロ。当時、これほどの規模をもつ飲用水専用の人口水路は、世界のどこにもみあたりません。しかしニューリバーの欠点は水量不足でした。総延長を43キロに短縮してから多少水の流れがよくなりましたが、拡張するロンドンの給水区域を広げるには難がありました。
世界の大都会のうちで、水道の水をそのまま飲んで下痢を起こさないのは東京だけです。日本が水に恵まれているということは日ごろ忘れがちですが、水質のよさが江戸を100万都市に育てたとも言えます。江戸と同時代の、人口40万のパリ、人口30万のロンドンは、良質の飲料水を得ることができませんでした。人口だけが大都市の条件ではありませんが、もともと悪水の湿地帯であった江戸が世界最大都市となり得たのは、町づくりの最初に上水道の敷設を計画した徳川家康、大久保主水の先見性に負っていること大なのです。
世界に先駆け大都市に普及させた上水も、その維持管理が適切でなければ、長続きしません。上質な上水の維持管理は、今日でも重要ですが、消毒などの技術が無かった時代においては、ひたすら上水を汚さないことに尽きるでしょう。その策の一つは、上水と下水の明確な分離にあります。上水は江戸内では暗渠(あんきょ。地下に埋設された導水路)で密閉された樋(とい)が使われ、一方下水は現在とは違い地表を流れていました。当時、合成洗剤も農薬もありませんでしたから、多くの都市における下水の主な問題は屎尿(しにょう)の処理でした。先にご紹介したように諸外国の大都市との決定的な違いは、この上水と下水の分離と屎尿の肥料化にあります。江戸では屎尿を近郊の農家に下肥として売却していましたし、下水の上に厠を作らないようにと指導していましたから、下水の主なものは生活排水である台所からの排水、あるいは洗濯排水でした。しかも、洗濯には米ぬかや灰汁など、体を洗う洗剤には米ぬかなどが使われていましたので、下水の汚染度は高くなかったと思われます。
よく江戸は、環境に配慮された都市で、とてもエコロジーな生活をしていたと言われますが、幕府も庶民も今で言う環境を考えて暮らしていたわけではないことは言うまでもないでしょう。狭く資源が乏しい国内で自給自足して行く為に、徹底した資源の循環が行われていたことが、世界で最も清潔で、また自然に恵まれた生活を営むことに繋がったのでしょう。この江戸時代の徹底した資源循環(もったいない精神)と現在の科学技術との融合が、現在の環境問題解決に向けての良いヒントではないかと思います。
現在の水道橋(神田上水の懸樋(かけひ・水路橋)があったことが名前の由来になっています。)
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