トップページ > 環境レポート > 第32回「子どもたちの放課後を救って、社会で子どもを育てる! ~日本の放課後改革をめざすアフタースクールの取り組み(NPO法人放課後NPOアフタースクール)」
2013.06.17
共働き世帯やひとり親世帯を中心に、学校の授業が終わった放課後の子どもたちの預け場所に苦慮する人たちが増えているという。学童保育は受け入れ人数にも限りがあるし、年収等の条件によっては受け入れてもらえないケースもある。就学前は保育園という預け先があったのに、小学校入学とともに放課後や長期休暇中の預け先が確保できなくなり、結果的に仕事を辞めたり生活の変化を余儀なくされたりする世帯が多くなっている。こうした問題は、『小1の壁』【1】と呼ばれて、近年大きな注目を集めている。
一方、子どもたちの自尊感情や自己肯定感が薄くなっていることが指摘される。コミュニケーション能力の低下も言われ出して久しい。背景には、地域の子育て機能の低下があるようだ。学校を終えた子どもたちの帰宅時間に親がいないことも少なくはない。都市化や核家族化が進行して、地域の大人たちとのかかわりも薄くなっている。かつては、近所の子どもたちを見守り、時に叱ってくれる地域の大人たちがまわりにたくさんいたが、近年はそうした地域と子どもたちとのかかわりやつながりが薄くなった。子どもたち同士の遊び集団もなくなっている。その結果、子どもたちは孤立した関係性の中で過ごす時間が長くなり、コミュニケーションの機会も減って、勉強など授業以外でアピールしたり自己実現したりする機会も少なくなっている。
放課後NPOアフタースクールのスタッフの秋山千草さん(右)と、インターンの長岩真子さん(左)。現在、スタッフが6人、インターン生が5人いる。インターン生はすべて興味を持って連絡してきた学生たちばかりで、開始時期も期間もまちまちだ。
『放課後NPOアフタースクール』は、こうした問題の解決に向けて立ち上がった団体だ。放課後の子どもたちが楽しく有意義な時間を過ごすための場と機会を提供するのが役割。その“遊びの場”として、普段から慣れ親しんだ学校施設を利用できれば移動の手間や時間もないし、安心できる。また、地域に住む市民の協力を得て、いろんな人たちの得意分野や専門性を生かした学びが提供できれば、分断された子どもたちと地域社会とのつながりを復活させつつ、多様なプログラムの提供にもつながる。特に環境問題をテーマにしたプログラムなどでは、授業の中で知識として学ぶことを補完するような体験型で実践的な気づきを得ることにつながっている。学校のクラスと違って、1~6年生の希望する全児童を受け入れることで異年齢の子ども集団ができて、先生と児童の一方的な関係だけでない相互関係が生まれることも期待できる。
アフタースクールの活動は、こうした地域の資源を集めて子どもたちに届けることで、“子どもも親も地域も元気になる”ことを目指すわけだ。
「私たちの目指すアフタースクールは、『安心・安全な預かり』と、『本物・多様な体験』が両立する活動です。いくつか特徴をあげていますが、中でも“多様なプログラムの提供”というのが、最大の特徴になります。子どもたちには、成績等に関係なく、自分の好きなものを見つけてほしいという思いで、各分野の専門家たちを放課後の学校にお呼びして、子どもたちに何かを提供してもらいます。そのコーディネート役を担うのが、私たちの役割です。いろんな大人の方々が学校に来て、子どもたちにかかわっていく。結果として、社会で子どもたちを育てるような仕組みが必然的にできていくのです」
そう説明するのは、スタッフの秋山千草さん。2010年からアフタースクールに関わりはじめて3年目を迎える。当時は学生ボランティアだったが、やがて週2~3日ほどインターンとしてかかわるようになり、昨年春に学生を卒業したのを機にスタッフとして勤めることになった。
アフタースクールの6つの特徴
NPO法人放課後NPOアフタースクールの代表を務める平岩国泰さん。
放課後NPOアフタースクールが活動を開始したのは、2005年11月。最初は任意団体としてはじめ、2009年にNPOの法人格を取得した。発起人で現在NPO法人の代表を務める平岩国泰さんは、お子さんが生まれたことがきっかけになって、子どもたちを取り巻くさまざまな問題に対して関心を高くするようになったという。
「いわゆる連れ去り犯罪が社会問題化していた時代でした。無抵抗の子どもをさらって、騒いだから殺したという話です。ぼくも親になって、娘が生まれていましたから、朝、普通に『いってらっしゃい』とあいさつしたのが最期の別れになったなんて話は、本当に耐えきれないわけです。そういう事件がいつ起きていたかというと、学校の行き帰りの時間です。要は、放課後、人の目が抜けている時間だったのです。その時間の安心・安全を守り、むしろ子どもたちにとって豊かな時間にする、それがアフタースクールの活動です。ちょうどアメリカの都市部を中心に放課後改革が始まっているという話を友人から聞いて、意気投合してはじめた活動でした」
当時、会社員だった平岩さんは、仕事で若い新入社員の面接をしていた。年間1,000人くらい面接していて、若い人たちの元気のなさが気になっていたという。それとともに、漠然とながら考えていたのは、30歳で子どもが生まれて、ずっとこのままサラリーマン生活を送っていてよいのだろうかという思い。何か、仕事でなくても、社会に役立つことができないか。細く長く、ずっと続けていけることをしていきたい、そんな思いが生まれてきていたという。
子どもたちの放課後の時間に発生していた連れ去り犯罪のこと、若者の元気のなさ、そして自分自身の将来──。そんな3つの問題意識がぼんやりと頭の中にあった頃にアフタースクールの話を聞いて、団子に串が通ったかのようにとてもしっくりときたという。
副代表の織畑研さんは、平岩さんの大学時代の後輩だ。
平岩さんにアメリカの放課後改革の話を伝えたのは、大学時代の同級生だった川上敬二郎さん。米日財団メディア・フェローシップ【2】に応募して、2003年4月から2か月間、アメリカに渡って同地のアフタースクール事情とその対策の実態を調査してきていた。帰国した川上さんがまわりの友人・知人たちに話をした中の一人に平岩さんがいて、2人の問題意識が重なった。同じく大学の後輩だった現副代表の織畑研さんを誘い合わせ、その3人が核となって地元世田谷区でアフタースクールの活動を始めようと立ち上がった。
「最初は、まったく実績もないし、誰にも知られていませんでしたから、学校に話をしに行ってもほとんど相手にしてもらえませんでした。ただ、近所に住む和食の職人さんが共感してくださり、最初の講師役を引き受けてくださることになったのです」
プログラムはできあがり、実施の準備は整った。参加者の子どもたちを集めようと、公園で子どもたちにチラシを配ったりもしたという。
「今思うと、完全にあやしい人ですよね。結局、知人のお子さんを中心になんとか人を集めて、公民館の一室で開催しました。地域のつながりが多少はありましたから、民生委員をしている人を紹介してもらい、その人が広めてくれたことで、徐々に人が集まるようになっていきました」
公民館を会場に実施していた時代が1年半ほど。やっていくうちに、保護者の方の好評を得て、「そんなに学校でやりたいのならうちの学校でやってみますか?」と言われて、世田谷区の小学校で実施する機会を得た。ただこのときの主体は平岩さんたちではなく、学校で実施している事業にプログラムを提供する形での参加だったという。その後、近隣の学校へ広がっていくとともに、横浜市で活動している団体との出会いから横浜市内の学校でも実施できるようになり、徐々に活動の実績ができていった。
「今にしてみればよい事例づくりになっていたと明るくふりかえることもできるんですけど、当時はまったく見通しも立たず、この先どうなっていくんだろうかと不安ばかりでした。ただ、地域や社会に学校を開いていこうという考えの方たちとはすごく話が合いましたから、そうした息の合う人たちといっしょにやっていきながら、よい縁に巡り合うことができて今に至っているというのが実感です」
現在、常設のアフタースクールを運営している学校も、最初の出会いは運命的なものだったとふりかえる平岩さんだ。
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